誤訳から得たモノと漢字の落とし穴

先日、部屋のお片付けの途中にみつけた、柳瀬尚紀訳の『ボルヘス怪奇譚集』を再読していたら一話目からいきなり変。

その夜、子の刻に、皇帝は夢をみた。宮廷を出て、闇のなか、花をいっぱいにつけた木々の茂る庭園を散策していた。何かが足元にひざまずき、かくまってほしいと頼んだ。皇帝は願いをききいれた。哀願者は己れが龍であると告げ、さらに、星まわりによれば翌日、夜になる前に皇帝の大臣、韋成に首を撥ねられることになるといった。夢のなかで、皇帝は彼を守ってやると誓った。

(強調は引用者)

死の宣告『ボルヘス怪奇譚集』

という記述なのだが、「韋成」は間違いなく「魏徴」の誤記。出典が明記されていないが、かわりに呉承恩の名前があるのでこの話の出所が『西遊記』なのは明白。なぜこのような誤記をしたのか不思議だったのだが、中野美代子岩波新書西遊記』あとがき*1を読んで疑問氷解。単に欧文から漢字にする過程の問題だったのね。いずれにせよ、この誤訳が元で中野先生は「魏徴斬龍」を「未徴斬龍」に読み替える着想を得た、と書いてある。

 しかし、このはなしは漢字があくまで表記の手段に過ぎないのに、表現力が強すぎてその字面に解釈がひきずられちゃうという事実も示しているような気がする。ちょこっと漢字知ってる人より拼音から入った人のほうが、いろいろ気づくってこともあるかも。
 ちなみにここで中野先生が指摘している訳者は、たぶん国書刊行会の『夢の本』の訳者。『夢の本』は発行年が1983年で『ボルヘス怪奇譚集』は1976年(晶文社クラッシックスは1998年になってる)従って『夢の本』の訳者さんは柳瀬尚紀さんの誤訳をそのままつかっちゃったんでしょうか。『夢の本』のほうは確認してないけど。

ボルヘス怪奇譚集 (晶文社クラシックス)

ボルヘス怪奇譚集 (晶文社クラシックス)

夢の本

夢の本

*1:ボルヘスの文中の漢字ローマ字表記(ウェード式)Wei Cheng を漢字に直すときの訳者の誤り...とある