河童の両腕は、なぜつながっているのか?国立国会図書館デジタルコレクションを使って調べてみる。

かっぱ こくりつれきしみんぞくはくぶつかん
河童の模型(国立歴史民俗博物館民俗コーナーより)

両腕がつながっているってどーゆーこと?

 河童について、多少、興味のある人なら、両腕がつながってるというのは、知っていると思うが、河童の両腕はなぜつながっているのか?といわれても、知らんがな(´・ω・`)というのが、一般的な反応だと思う。
両腕がつながってるって、どーゆーこと?という人は、漫画家の西岸良平の説明を見ていただいた方が早いかもしれない。

『鎌倉ものがたり』(第75話二つの密室)のカッパの絵
鎌倉ものがたり』(第75話二つの密室)

このカッパの特徴は、面白がられて、よく漫画などで描かれたりするので、それで知った人もいるだろう。いずれにしても、この話だけだと、なぜ、河童にこのような特徴があるとされるのか、いろいろと疑問も湧いてくるだろう。実際、『河童の日本史』(中村禎里ちくま学芸文庫、底本は1996年刊)で、中村禎里は、以下のように書いている。

ちなみに、河童の両手が通っており、かんたんに抜けるというモチーフがこの妖怪と藁人形・草人形との関連を示すことは、折口信夫柳田國男がかつて指摘した点であった。折口はこのモチーフを、相撲のさい生じやすい脱臼の事故とつなげている。(中略)むしろ一次的には河童のこの性質は、スッポンの手足が縮まることに由来したのだろう。河童の手が左右に通り抜けるという情報の初出は、『和漢三才図会』卷四〇の記事である。腕を一本の草木で通した人形の奇妙な印象が、スッポンの伸縮する四肢に付着した可能性を、あながち否定することはできない

 このように、河童について書かれている本では、だいたいその由来を人形などに結びつけて解釈しようとしている。しかし、中村は考察の対象からはずしているが、柳田國男は、『山島民譚集』(1914年刊)*1で、もう一つ重要なことを書いている。この特徴を持つとされたサルがいたとされることである。柳田は、アイヌの河童、ミンツチが、オキクルミが作った草人形(チシナプカムイ)に由来する説話を紹介し、以下のように書いている。

 草人形ハ蓬ヲ十字ニ結ビテ人ノ形トシ、横ノ一本ハ即チ左右ノ手ナルガ故ニ、今モ「ミンツチ」ハ片手ヲ抜ケバ両手トモ抜ケルナリト称ス。(中略)
此記事ノ中ニテ殊二注意スベキハ亦例ノ河童ノ腕ノ話ナリ。内地ニテモ之ニ似タルコトヲ云フ。(中略)
 此等ノ話ノ奥羽ニ存在セズシテ、遙カニ九州ニ飛離レテアルハ殊二奇ト言ウベシ。中国ニテモ「エンコザル」トハ手長猿ノコトニテ、此猿ノ左右ノ手ハ貫通シテ一本ナルガ故ニ、梢ヨリブラ下ガリテ水中ノ月ヲ探ルニ便ナリナド、老人ノ語リ聞カセシコトアルヲ記憶ス。而モ其由来ニ至ツテハ独リ「アイヌ」ノミ之ヲ説明シ得テ、我々ハ未ダ之ヲ尋ネントモセザリシナリ。
『山島民譚集』河童駒引 柳田國男全集2 遠野物語ほか,筑摩書房,1997

 のちに柳田は『桃太郎の誕生』*2で、「内地」に、河童の両腕についての由来譚があることを紹介している。また、引用文中の中国というのは、柳田の故郷、播磨(中国地方)のことを言っているのだと思うが、日本にテナガザルはいないので、いまいちよくわからない。ただ、後述するように、この話は、中国のテナガザルに由来するものであることは間違いない。

中国のテナガザル

 以前、ニホンザルが猿ではなかった、という話を書いた。
eoh-gs.hatenablog.com
そこでニホンザルが猿ではなく、猴であり、猿はテナガザルだったと紹介し、テナガザルに、両腕がつながっている通臂説があったこともあわせて書いた。ネットで河童について検索すると、中国にいる通臂猿猴というサル妖怪、という説明が判で押したように出てくるが、通臂猿猴は妖怪ではなく、単なるテナガザルの異名である。南方熊楠の『十二支考』(猴は1920年発表)に、その辺りのことが詳述されているので、再度引用しておく。

『和漢三才図会』にいわく、〈『和名抄』、猨、獼猴以て一物と為す、それ訛り伝えて、猨字を用いて総名と為す。猿猨同字。〉と。誠にさようだがこの誤り『和名抄』に始まらず。『日本紀』既に猿田彦、猿女君など猴と書くべきを猿また猨と書いた。(中略)猿英語でギッボン、また支那音そのままとってユエン。黒猩、ゴリラ、猩々に次いで人に近い猴で歯の形成はこの三者よりも一番人に近い。手が非常に長いから手長猿といい、また猿猴の字音で呼ばる。(中略)手を交互左右に伸ばして樹枝を捉え進み移る状、ちょうど一の臂が縮んで他の臂が伸びる方へ通うと見えるから、猿は臂を通わすてふ旧説あり。
南方熊楠著『十二支考(下)』1994,岩波文庫

この南方の説明は、先ほどの柳田の話よりも、詳細かつ正確である。実際、柳田と南方の往復書簡が出版されているが、サルの用字は、柳田が無頓着なのに対して、南方はきっちりと書き分けてる。
 中国の猿(テナガザル)の通臂説については、こちらも漫画になっているのでご存知の方もおられるかもしれない。諸星大二郎の『西遊妖猿伝』に出てくる通臂公だ。*3西岸良平の河童と見比べてもらいたい。

『西遊妖猿伝』(双葉社)
西遊妖猿伝』巻之二 乱の四,ACTION COMICS 双葉社1984

 以前のエントリでも言及したが、猿の通臂説は、中国には3世紀頃からあるので、この河童の通臂説も、中国から入って来たものに違いない。通臂の由来についての南方熊楠中村禎里の説明を読んでも、納得しやすいのは、南方の説明だろう。さらに言えば、実は文献上でも、この推測を裏付ける証拠がある。

河童に通臂説を持ち込んだのは誰か?

 引用した中村禎里南方熊楠の文章を読むと、共通の文献が出てくることに気付く。寺島良安の『和漢三才図会』である。中村は河童*4の通臂説の初出がこの『和漢三才図会』だとしている。だとするならば、『和漢三才図会』の猿の項目*5で通臂をどのように扱っているか調べればよい。猿の項目を読むと、実は説明のほとんどが李時珍の『本草綱目』*6からの引用であることが分かるのだが、ここで両者を比べてみると、引用文中に不自然に脱落している一文があることが分かる。

右『本草綱目』 左『和漢三才図会』いずれも国立国会図書館デジタルコレクションより

 一体、なにが脱落しているのか?「或言其通臂者誤矣」という一文だ。書き下せば「或いはその通臂と言うは誤りなり」となる。猿の通臂が誤りであるという指摘をした部分なのだ。このことから、おそらく寺島良安が、猿の通臂説を、川太郎(河童)の特徴に持ち込んだ、と見て間違いないと思われる。ついでに書いておくと、『和漢三才図会』では、サルは寓類、川太郎は恠(怪)類に分類され、『本草綱目』(1596〔萬暦24〕年刊、日本には1607〔慶長12〕年渡来)に倣ってなのか、貝原益軒の『大和本草』(1709〔宝永6〕刊)*7を継承したのか、この二つの分類は獣部の寓怪類として隣り合っている。これは江戸で人見必大が刊行した、『本朝食鑑』(1695〔元禄8〕年刊)*8が、河童を、鱗介部の龜鼈類の鼈(スッポン)の項で紹介したのとは著しい相違である。猿の通臂を面白いと思った寺島良安が、混入させるにちょうどよい位置に、川太郎は配置されているのである。あるいは川太郎がサルに近いと思って、このようなことをしたのかもしれない。実際、『和漢三才図会』の川太郎の図はサルに近い。

わかんさんさいずえ かわたろう
『和漢三才図会』川太郎 国立国会図書館デジタルコレクションより

本草学とメディアの生んだ妖怪、河童

 河童の通臂説については、その起源譚を巡って、冒頭に引用した柳田、中村は『北肥戦誌』(別名、九州治乱記)という、1720(享保五)年の序文がある史料を持ってくるのだが、上記のことを考えると、1712(正徳二)年から3年後には成立していたと思われる、『和漢三才図会』から持ち込まれた設定と考えても矛盾はない。むしろ、この書物に取り上げられたことによって、九州では通臂説が広まったのではなかろうか。柳田は、アイヌのミンツチが、奥羽のメドチなどと、関係がある、という金田一京助の説を紹介しているが、通臂説の混入という点からも、それが裏付けられるだろう。
 何度か書いたが、江戸時代は、本草学の隆盛や出版メディアの増加など、日本中の知識層が拡大した時代だ。河童イメージは、この時代に大きく変容を遂げた。民衆の中にあった各地の水妖が、本草学によって、名前や姿が違っても、同じカテゴリーの生物として理解されるようになるのである。そういう意味では、近代化以降、さらに決定的になった河童イメージの統一は、すでにこの時代に始まっていたとも言える。河童の通臂説は、民衆伝承としての河童説話に、本草学者が持ち込んだものだが、まだ混沌としていたゆえに、違和感なく受け容れられ、人形起源譚をはじめとした説話形成にも影響を与えた。おそらく九州の河童伝承の知識のある人物によって、アイヌにも持ち込まれたのだろう。
 中国文学者の中野美代子さんが、河童とテナガザルの通臂の相似については言及していたのは読んだことがあるので、当然、民俗学でも既知の話題だと思っていた。しかし、数年前に文庫で読んだ中村禎里の『河童の日本史』が、中国のテナガザルに全く触れていないことに気付いた。それに疑問をもって、いろいろと調べてきたが、少なくとも民俗学の分野では、河童と中国のテナガザルの関係は、あまり知られていないのではないか、と思う。もう少し、知られてもよいと思うので、ここで書いておく。