波斯人 李密翳は本当にペルシア人なのか?(上)

波斯人李密翳のこと

 波斯人の李密翳は『続日本紀』に天平八(西暦736)年八月二十三日の条で遣唐副使の中臣名代に連れられて天皇に会見し、同年十一月三日の条で叙位の記事が出てくる、通常ペルシア人とされる人物である。数年前にも奈良で出土した木簡に「破斯」を姓にした人物の名があり、李密翳の子孫と騒がれたことがある。*1
 この李密翳が普通ペルシア人であるとされているのは、漢字の「波斯」がペルシアを指すことが半ば常識だからだ。しかし、逆から考えると李密翳がペルシア人である根拠はその「波斯」という字以外にあるのだろうか?李密翳は『続紀』上では上記の来日、叙位の記事以降全く活躍するようすがないので、おそらく、ほとんど真面目に研究されたことがないのではないか。*2もの珍しいということからか、特に注記もなく、はなからペルシア人として扱っているものしか目にしたことがない。正倉院の宝物にあるペルシア産と目される器物と結びつけられて語られることも多い。自分がこの波斯人 李密翳の出身に疑問を持ったのは、今村与志雄訳『酉陽雑俎』の訳注に、この「波斯」について、ペルシアでない「波斯」がある、と言及されていること、また木簡騒ぎで波斯人李密翳が意外に着実な研究を欠いたままペルシア人とされているように思われたからである。

「波斯」のこと

 今村与志雄によれば、東南アジアにも「南海の波斯」と呼ばれる国があるという。『酉陽雑俎』巻十八 広動植之三「龍脳香樹」についての一文に出てくる「波斯」の注で以下のように紹介している。

波斯は、ふつう、イランをさすPersiaの転写とされているが、『酉陽雑俎』のこの例は、マライの波斯(ポースーとルビ)と解釈すべきである。一『忠志』一七話*3、交趾から龍脳を献上した話をしるすが、そこでも波斯では、老龍脳樹と呼ぶとしるし、交趾から距離的に近いことが示されている。B・ラウファーが、『シノ・イラニカ』で指摘*4しているとおり、唐の樊綽の『蛮書』に、そのマライの波斯は、驃(ビルマ)と境界を接しているある地域として記載されている。(中略)なお、『蛮書』一〇には、「驃国は……波斯および婆羅門と隣接する」とある*5。また、同書六には「永昌城は、古の哀牢の地である。……さらに、南に、婆羅門、波斯、闍婆、勃泥、崑崙数種外道がある」という*6。闍婆は今のジャヴァ、勃泥はボルネオ、いまのインドネシアカリマンタンである。向達の『蛮書校注』では、同書一〇に「大秦波羅門国」(向達は、大波羅門国とすべきで、秦はあるいは誤衍であるという)、「小婆羅門国」とあるのをとりあげ、小婆羅門国は、いまのインド東部、アッサム南部一帯をさし、アッサム北部以西からガンジス河流域までが大婆羅門国に属するだろうと推定している。だとすれば、波斯は、マライ半島のある地域か、あるいは、ひろくいって南海のどこかの地域をさすことになる。向達は、フランスの東洋学者G・フェランの「南海の波斯」を引き、いわゆる「南海の波斯」はビルマのバセインBassein(イワラジ川下流流域の西)であるか、スマトラ東北岸のパセPasè,あるいはボルネオ、ジャヴァ、バンカなどの諸島のパシルPasirでもあり得るというその説を紹介している。
段成式撰,今村与志雄訳注『酉陽雑俎 3』247ー248頁,東洋文庫,1981

また、今村与志雄は「波斯」について別の注で、『酉陽雑俎』が成立した唐末より時代はくだるが、趙汝适の『諸蕃志』などにも「南海の波斯」の名が見える*7こと、段成式がペルシアの「波斯」と「南海の波斯」を混同していることを指摘し、日本の『うつほ物語』に「南海の波斯」がでてくることを紹介している。

『うつほ物語』に見える「波斯」

 『うつほ物語』は10世紀中ごろから11世紀初頭に成立したとみられ、作者は源順説があるが未詳とされる。正直に言えば、『うつほ物語』という物語については、古典の授業で出てきたような記憶はあったが、内容は全くしらなかった。そこで「波斯」にかかわる該当部分を読んでみた。物語は冒頭の「俊蔭」で、最初の主人公である清原俊蔭が、遣唐使となって渡唐を試みるが、遭難して波斯国に流れ着く、というストーリーからはじまる。この「波斯」は中野幸一校注・訳『うつほ物語1』(新編 日本古典文学全集14,小学館,1999)の注では、マレー半島かボルネオ付近にあった島ではないかとされ、「南海の波斯」と解釈されている*8。また、岩波の日本古典文学大系『宇津保物語』の補注十三には

波斯国 これを南洋諸島の一とし、或は今のペルシャと見る説もあるが、ペルシャは印度の西方だから、そこまで船が漂着したとも考えられず、日本へ俊蔭が帰る時も波斯国へ渡るとあるので、日本との交易に便利な所と見なければならない。少くも印度より東であってシナ(ママ)に近い国である。七人の人と琴を弾じた場所は、波斯国からはるかに西方の筈だが、「仏の御国よりは東」と言っているので、波斯国が今のペルシャでない事は確かである。
河野多麻校注『宇津保物語一』(日本古典文学大系10、岩波書店,1959)

として、ペルシア説は一応退けている。ただ、同書に付属する月報には久松潜一の「宇津保物語と波斯国など」という文章が載っており、こちらは位置的にはおかしいが、文献では通常、波斯=ペルシアとされているので、ペルシアとみたい、というような事が書いてあり、「南海の波斯」についても、ペルシアの属領だろうか、などとしている。最近はどうなのか、ネットで検索してみると研究者によっては、ペルシア説を提唱しているようだったので、一応、ペルシア説を唱える研究者の著作を調べてみることにした。ネットで紹介されていた山口博『平安貴族のシルクロード』を調べてみると「波斯」について以下のように書かれている。

 俊蔭の漂着した波斯国という名の国は、現実に存在した。三世紀から七世紀にかけて、今のイランにあったペルシア(ササン朝ペルシア)である。
 たとえ東シナ海を横断する遣唐使船が難破、漂流しても、東シナ海から南シナ海、インド洋を越えてアラビア海の奥のペルシア湾に漂着するはずはない。だから、多くの研究者は、波斯国はペルシアではなく、インドシナかマライ諸島だとする。だが、東南アジアに波斯という国があっただろうか。作者が「ペルシアだ」と言うのに、読者が「ペルシアではない。東南アジアだ」と言い張る権利があるのだろうか。それが正しい読み方なのだろうか。
 奈良・平安の知識人にとって、波斯国はペルシア以外の何物でもない。唐帝国を要とするグローバルな八、九世紀は、人の交流によって異国の情報に接することが容易にできた。多くの波斯人が居住し、波斯寺さえあった長安に滞在した遣唐使・留学生・留学僧などから、波斯国について聞く機会は幾らでもあった。波斯国からやってきた胡酒・胡姫が、帰朝の話題にならないはずはない。『竹取物語』で話した道照などは、玄奘に師事していたのであるから、帰国後の彼の話はシルクロードの準体験談として重みがあったに違いない。玄奘は波斯国までは行かなかったが、波斯国について『大唐西域記』で触れているからには、かなりの知識をもっていたのである。
 どのくらいの数か分からないが、李密翳のように来朝した波斯人もいた。彼は天平八年に来朝、叙位されているのである。その他の波斯人の来朝を、イラン研究者の伊藤義教氏・井本英一氏、作家の松本清張が指摘している。
 (中略)「波斯」の名は幾つかの書籍にも見られる。九世紀の『日本国見在書目録』には辞書の類かと思われる「波斯字様一巻」が見え、一〇世紀の源順『和名抄』革帯の注に「波斯瑪瑙帯」がある。一二世紀大江匡房『江談抄』には、外国語を初めて習う時に、一、二、三という数字から覚え始めるように、数字に波斯発音が記されている。
 以上挙げたように、実に豊富に「波斯」の資料はあり、それはペルシアを意味していた。それから考えても、物語の中の波斯国はペルシアである。遣唐使船が難破し漂流を続けてイランに漂着することもあり得ると、王朝人は考えていたのか、あるいは難破漂流の途中に、外国の交易船に助けられたと想定したのか、全くの虚構として想定したのかは分からない。
山口博『平安貴族のシルクロード』(角川選書、2006)89頁

 中略とした部分には、他の論拠(中国とペルシアの交渉史料や玄奘の記録、交易の証拠)も示しており、かなりの熱量で語っているので、なんとなく納得させられてしまいそうになるが、結論から言えば、マレー半島スマトラ島付近に「波斯」という国が存在していた証拠はある。したがって山口のペルシア説は、漢字が「波斯」になっているから、ペルシアである証拠を集めたようにしか見えない。また、この書きぶりからすると、学会でも現在はペルシア説は少数派なのであろう。国文学の研究者に、最近この物語のストーリーを知ったレベルの自分が言うのもなんだが、『うつほ物語』にでてくる「波斯」には岩波の『宇津保物語』で河野多麻が指摘するように、地理上の特徴として、「仏の御国(西方浄土を指すが、なんとなくインドっぽい感じもする)」より東側にあるという設定があり、栴檀、虎、象、孔雀などペルシアというより南方*9を思わせる描写が続出する。この問題を「波斯」はペルシアだから、と簡単に片付けてはいいのか疑問がわく。
 最近の国文学の研究者の中で『うつほ物語』の「波斯」がどのように扱われているのだろうか。図書館で見つけた学習院大学平安文学研究会編『うつほ物語大事典』(勉誠出版,2013年)の「波斯」の項を参照してみた(執筆者は中丸貴史)。「波斯」は俊蔭の旅の起点と終点くらいしか言及されない印象の薄い地名であることを指摘しつつ、今までの研究が陸のシルクロードに偏りすぎだった、と書いているので、筆者の中丸は「南海の波斯」説に傾いているのだろう。根拠として、海のシルクロードについて幾つか論点を挙げている。一つが『続紀』の天平八年の李密翳来日記事の後の天平十一(西暦739)年十一月三日の条に、李密翳を日本に連れて帰った中臣名代と同じ天平五(733)年四月出発の遣唐使の一員、平群広成の復命記事があり、その内容が唐からの帰国の途次に遭難して崑崙国まで流され、崑崙国王に会見した、というもので、俊蔭が遭難して流された「波斯」で王に会見した、という内容に似ているということ、もう一つが、時代は下るが『扶桑略記』の延喜二十年(921年)十二月廿八日の条*10に唐僧長秀が「波斯」に渡ろうとして遭難、日本に流れ着いた記事のあることだ*11。921年には、ペルシアはとっくの昔にイスラム化しており、仏教僧が渡ろうとしたというのは不審だ、ということであろう。なかなか説得力のある指摘である。断定した書き方をしていないのは比定の史料が決め手を欠く、というところなのかもしれない。

『二中歴』、『江談抄』に残る波斯国語

 先に引用した山口博『平安貴族のシルクロード』に「波斯=ペルシア説」の根拠のひとつとして、『江談抄』に波斯国語による数字の発音が付されているという一文があった。これを実際に確認してみると、ペルシア語ではないことがはっきりと分かる。ネットで検索すると「大江匡房とマレー語」という1938年に金澤庄三郎*12が発表した論考が見つかる*13。この論考には、この数詞の考証が、詳しく載っている。金澤は『二中歴』に波斯国語が載っていることから出発して、『江談抄』の波斯国語と摺り合わせた考証をしている。『二中歴』、『江談抄』の波斯国語がアラビア語、ペルシア語と比較して、全く一致しないことから、「波斯」という国名について調べ、少なくとも匡房在世の頃には、「波斯」に「南海の波斯」があることを知り*14、マレー語と比較を試みたとのことである。いずれにせよ、この数詞の一致から見るに、この時の日本で使われていた「波斯」が「南海の波斯」を指していたものであることは明らかであり、ペルシア説の補強には全く使えないことは言うまでもない。岩波の新日本文学大系『江談抄』の注も、この論考*15ないしは、この論考を元にしたものに拠っていると思われる。岩波の『江談抄』には巻三に波斯国語として、以下の数詞の読みが載っている。(括弧内は金澤が『二中歴』と『江談抄』の異本複数を校合して復元したものを私が付け足した)

一 ササカ。(ササア)
二 トア。(ドア)
三 アカ。(チカ)
四 ナムハ。(アムハ)
五 リマ。
六 ナム。
七 トク。(イツラ)
八 ゲンビラ。(ドアミラ)*16
九 サイビラ。(サイミラ)
十 サラロ。(サプロ)
二十 トアロ。(ドアプロ)
三十 アカフロ。(チカプロ)
四十 ヒハフロ。(アムハプロ)
百 ササラト。
千 ササホロ。(ササジホ)
後藤昭雄 校注 , 池上洵一 校注 , 山根對助 校注 『江談抄 中外抄 富家語』(新日本古典文学大系32、岩波書店,1997)

「波斯」には注がついており

中国でのペルシアの呼称。日本でも倣って用いられ、東大寺諷誦文稿*17日本国見在書目録、うつほ物語などに用例がある。唐末から宋にかけて、東南アジアの一部をもいうようになり、ここでの波斯国語はマレー語。

となっている。金澤の校合と復元がかなり当を得ていることは、以下のYouTubeの動画を参照すれば一目瞭然である。マレー半島のマレーシア語と、スマトラ島インドネシア語(マレー系言語)の数詞が、当時と比べても、かなりそのまま残っていることが分かる。また、十以上の数字についても、その構成がマレー語の数詞のそれに沿っているものであることもわかる。この動画の講師さんたちも、まさか12世紀の日本の書物に、自分たちの、今、話している言語が載っているとは思ってもみないのではなかろうか。
www.youtube.com
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長くなってしまったので次回につづく、多分。(他の日本史料『東大寺諷誦文稿』『唐大和上東征伝』『明匠略伝』などに見える「波斯」「巴子」という語について検討予定。)

追記

一部表現を修正。2021/11/04

*1:この件についてはこちらを参照のこと→「破斯清道」は本当にペルシャ人なのか?「はじ」(土師)とも読めることに気付いた…【平城宮式部省木簡】 - Togetter続報!「破斯清道」は正倉院文書「土師浄道」と同一人物か!?ペルシャ人では無かった日本の下級官吏はじのきよみちの17年後の昇進について - Togetter

*2:2022/08/11追記 この文章をアップしてから、ほどなくして鈴木靖民が論文を書いていたのを発見。すぐに確認できなかったものの、先日確認してきた。戦前に相当研究があったらしいこと(もちろん日本の南侵と関連しているのであろう)、1980年に国文学者の山﨑馨と鈴木が朝日新聞上で波斯の位置について論争していたこと、今村与志雄もその論争を読んでいたであろうこと、を確認。もっと資料とか論文集めてみないと迂闊なことは書けないなぁ、(もう書いちゃった気もするけど)ということで、下は当分お預け。

*3:『酉陽雑俎』一巻にある篇名

*4: Laufer,Berthold,1919 Sino-Iranica; Chinese contributions to the history of civilization in ancient Iran.ラウファー, バルトリド. “シノ=イラニカ 古代イランの歴史に対する中国の貢献.” 国立情報学研究所「ディジタル・シルクロード」/東洋文庫. doi:10.20676/00000248.http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/III-5-C-22/V-1/page/0294.html.ja

*5:中國哲學書電子化計劃 蠻書 https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=150721&page=121

*6:中國哲學書電子化計劃 蠻書 https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=150721&page=83

*7:中國哲學書電子化計劃 諸蕃志·卷上~卷下https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=228984&page=86

*8:ただし、中国史料に見える「南海の波斯」にまでは言及していない

*9:インド象の戦象としての運用例はペルシアにもあり、虎もペルシアにいたらしいが。孔雀もインドと東南アジアに生息している。

*10:国立国会図書館デジタルコレクション 国史大系. 第6巻 日本逸史 扶桑略記https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991096/346

*11:小学館の新編日本文学全集でも言及あり

*12:日鮮同祖論で悪名高い言語学者

*13:駒澤大学学術機関レポジトリ 書誌情報はリンク先にある。http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/20694/?lang=0&mode=0&opkey=R162901339510968&idx=7&codeno=&fc_val=

*14:書き方を見るに『シノ・イラニカ』を参照しているのではないかと思うのだが未詳。

*15:本稿は紙数に制限があるため、概要を摘記したに過ぎぬ、いづれ別に詳述する考である、とあるので後日ちゃんとした論文になったのであろう、たぶん。自分のような一般人が調べるのは手間なので調べてないが。

*16:岩波の校注では、八をゲンビラとするが、金澤に拠れば、漢字では玄美羅と書かれていて、これは本来、止アつまりトアと書かれていたものが、誤って玄と書き写されたものとしている。

*17:後ほど検討する